PTA の事業計画と総会について

PTA の事業計画と総会について

あるPTAの方から相談があって、ふと考えてみたら、色々なことがそもそも間違っているかおかしいのでは無いかと思ってきたので、個人的な意見としてまとめて書いてみることにしました。

「事業計画は実施可能な事業じゃ無いといけないのか」

簡単にいうとこのような相談があったのです。PTAは現在、多くの人が理解されているように、ボランティア制に大幅に変更している感じだと思うのですが、ボランティア制だと、もしかしたら、ボランティアが集まらずに出来ないかもしれないことってあるよねと。そうなると、事業計画として書いて良いものでしょうか?という感じの相談があったのです。

個人的な意見と認識としては、これはあくまで事業計画なので、大丈夫でしょうと。丁寧に説明したいと思うなら、事業計画の説明として、「出来なくなることもあります」的な記述があれば丁寧になるんじゃ無いですかと思ったのです。

会費を集めての活動だから計画とかしっかりしなきゃ

で、個人的にそこまで真面目にやらなくて良いじゃ無いかなと思っていたのですが、「会費を集めているので、ある程度しっかりしないと」ということだったのです。

なるほど、それは確かにそうだなと思ったのですが、根本的な問題があるなと思ったのです。これは、以前から喉の奥に引っかかったように気になっていたことなのです。

事業計画って誰が作るべきだっけ ?

ある程度、流れができている組織に属していると、思考停止に陥りやすいので仕方のないことなのですが、普通は事業計画ってその事業を実行する人が作るはずですよね?ということは、PTAの場合は次期のPTA役員の方々が作るべきじゃないかなと。

ちなみに、今回ご相談を頂いた方は次も継続して活動をされる方なので、大きな問題はないのですが、ほとんどのPTAって前年度の役員さんが次の事業計画を作りますよね。まあ、なので、前年踏襲の流れが出てきてしまっているのでしょうけど。

で、考えてみたのですが、なんで前年度の役員さんが決めるかというのが、新年度の役員さんがPTA総会で承認されないと確定できないからだと思います。でも、そもそもが決める順番というかタイミングがおかしいのではないでしょうか?と。

やるべき事やどういう順番ですべきかはしっかりと考えるべきでは?

普通に考えたら、以下のような順番でやらないといけないのだろうなと。

  • 1年間の事業を見直すために事業・決算報告をする。
  • 1年間の見直しによって規約変更などを考え提案する。(ある時だけ)
  • 次年度の関係者(役員とか)を確定する。
  • 報告を参考に次年度の計画を次年度の関係者で作成する。
  • 事業・予算計画を作成して、承認してもらう。

これを1回の総会でやろうとするから、機能不全が発生しているのではないだろうかと。

そもそも、素人ボランティア集団にどこまで求める?

こういう話をすると、役所系の真面目な方々は、計画をしっかりと立てて、計画を遂行するために活動をしないとということをおっしゃる方が多く見受けられます。でも、それって、そもそものボランティア活動というか地域活動を考えると、大筋は作ったとしても枝葉としての活動においては臨機応変に対応すべきなのではないかなと思ったりするわけです。

しかも、ボランティア活動をしようとする人が少ない日本において、どこまで精度を求めるのよ?とか思ってしまうわけです。もちろん、雑に適当にして良いとは思っていないのですが、ある程度のバッファを持ってやるべき活動じゃないかなと思うのです。大枠の予算と活動指針を作って、あとはざっくりとした計画でいいんじゃないかなと。

そもそもボランティア事業はそこまでお金はかからない

そもそも、PTAの事業って単位PTAだと掛かっても10万円以下でほとんどが高くて数万円だと思うのですよね。もちろん、中間報告などでお金の流れや使い方には注意(広報部が自分が作ったからデザイン代としてもらうとか、すごいことする人もいるので)は必要ですが、ある程度現場に裁量権を与えるためにも事業計画も緩めにしたらいいんじゃないかなと思うのです。

総会は実質2回に分けた方がいいと思ってきた

そもそも、無理な流れのPTA総会じゃないかなと疑念を持ってしまったので、やっぱりこういうところを変えるべきではないかと思ってきました。で、個人的な提案ですが、総会は実質2回すべきかなと。

もちろん、仰々しい総会なんかやめて、両方とも書面決議の形でいいと思うのです。

  • 1年間の事業を見直すために事業・決算報告をする。
  • 1年間の見直しによって規約変更などを考え提案する。(ある時だけ)
  • 次年度の関係者(役員とか)を確定する。
  • 報告を参考に次年度の計画を次年度の関係者で作成する。
  • 事業・予算計画を作成して、承認してもらう。

上記の二つに分ける感じです。そもそも、規約に総会で「事業計画」の承認が必要などの文言が無ければ、第一回の役員会で事業計画や予算計画を作るとしてもいいのかもです。

普通はこうするよねと言うことも、違和感に気がついたら見直すべき

人間は基本的に、歴史的に農耕民族の傾向になった時点で保守的な思考回路を持つようになっています。これは、いい悪いではなく、そう言う特性を持ってしまっているので、意識しないとその流れに飲み込まれてしまうんですよね。

自分で気がつかなくて、誰かに指摘されて、「そういえばそうかも?」と思う部分があれば、ゼロから検討しなおした方がいいと言うことが往々にしてあるのが、現代社会だと思います。PTA活動に限らずね。

PTAっていう組織を色々な側面から整理してみた

PTAっていう組織を色々な側面から整理してみた

ちょっとXの方で「PTA非会員」という言葉から思考が進んでいったのですが、そもそものPTAってどんな組織なの?というのがわかりにくいんじゃないのかなと思ってきたので、まとめてみました。

間違っている部分もあるんじゃないかなと思っているので、個人的見解です。

ボランティア組織かどうか?

まず、混乱し始めた理由は「PTAはボランティア組織ではない」という意見が出たことなんです。

個人的にPTAって「ボランティア組織じゃないの?」と思っていたので、まずは頭を整理しようと。

「ボランティア」の対義語は「利益を追求」という感じになるんですね。細かくいうと「社会奉仕(社会をよりよく変えつつも利益を追求しない)」と「利益追求(活動を通してより多くの利益を追求する)」という感じかなと。有償ボランティアも給与という利益を得てはいるものの、社会をより良くしようとして、多くの給与を求めない(生活できるレベルで留めてる)という点では、ボランティアになるのではないかと思っています。

この対比の括りで言うとPTAはボランティア団体ではないかなと思うのです。

社会教育団体って難しい

「社会教育団体」って言葉を知っている人は個人的に少ないと思っているんですけど、PTAの課題などを議論するときにいつも出てくるんですよね。出てくる度にしっくり来なかったりしているのですが。

社会教育とは学校や家庭以外の社会で行われる教育です。学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年や成人に対して行われる組織的な教育活動を指します。

社会教育法(昭和二十四年法律第二百七号)(抄)第三章 社会教育関係団体

ちょっと上記は引用先というわけではないのですが、社会教育をするところを社会教育関連団体というらしいのですが、PTAって、この教育活動を主とするところだっけ?となってしまうんですよね。もちろん、部分的にその要素がある時もあるのですが、今のご時世や実際の活動において、それがメインだろうかと。

多分、一昔前だと家族の形が一定というかイメージが標準化されていて(1家族4人みたいな)、でも今って家族の形って、めっちゃ多種多様になっていますよね。それを教育するって、なんというか上から目線というか、そもそも多種多様にあって、暴力的なDVとか違法性とか子どもの人権を無視しているとか無ければいいんじゃないのかなと思ったりしまうわけです。

ただ、保護者が集まって、子どもの人権の話とかすることもあるので、社会教育関連団体の部分もあると思うので、そういう点では社会教育関連団体なのかなと思うところもあります。

ただ、この区分けって、「学校教育」か「社会教育団体」かという区分けであって、ボランティアかそうではないかという区分とは別の区分けではないかなと個人的に思っています。

そういう点ではPTAは社会教育団体の枠に入るんだろうなと思うわけです。

まあ、そもそも昭和 24 年に制定された現行の社会教育法が今では通用しなくなっているよなという話な気もしてきました。。。

市民活動団体ではあるよな

そして、「ボランティア団体ではなくて、市民活動団体だよね」っていう話もあったのですが、市民活動団体って、個人的に市民サークル活動的なイメージがあったのですが、少し趣が違うようでした。

市民活動団体とは市民による、地域の課題を解決する活動をする組織のことを指します。

市民活動団体とは いちのせき市民活動センター

ということなので NPO とかも入るんですけど、市民活動団体の対局にいる組織は「国や大企業」になるようです。

そういう点ではPTAは市民活動団体と言えるだろうなと思うわけです。

今回の考察等に関して個人的な結論

えっと、先に言っておきますが、個人的な考察の結果です。「そこは違うよ」とか言われることがあるだろうなとは考えた上での現時点でのPTAという組織は以下のように考えたらいいのかなと思います。

  • PTA とは利益を追求はしないので、ボランティア団体と言える。
  • PTA とは人権等の情報共有をするので、社会教育関連団体と言える。
  • PTA とは市民が(学校などの)地域の課題を解決する活動をする市民活動団体と言える。

てな感じで捉えています。

まあ、もちろん、強制加入ではない任意団体であることは大前提ですけどね。

上記の3つを兼ねているから強制加入が正しいなどは一切思っていませんので、それは悪しからず。

子どもと関わる大人として思っていること

子どもと関わる大人として思っていること

先日、私が生き方や意見において尊敬する一人であり、友人(私の思い込み?)である若林さんの facebook での主張に関して、ちょっと意見が異なって(?)いて、でも一言で説明できなかったので、久しぶりにブログにしてみました。長文です。ご容赦ください。

ちなみに、今、クライアントのサイトのバックアップとリストアをバックグラウンドでしながら書いている状態です。www

今回記事を書き始めた理由の記事は以下です。

CoderDojo奈良・CoderDojo生駒 マインクラフトカップ2022について

https://coderdojo-nara-ikoma.github.io/blog/minecraft-cup-2022/

基本的に「マインクラフトカップ2022に応募しようと活動しましたが、断念した理由」を書かれています。まず、先に言い訳(?)させていただきますが、この決断を行ったことを批判したり非難する気は一切ありません。CoderDojoに関わる皆さんでしっかりと考えた上で決めたことでしょうし、子どもたちも理解した上での決断だったと思うからです。

では、何に私個人の意見として「うーーーん」となってしまったかというと、今回の課題に関して、現時点での若林さんの改善に対する結論が以下のように書かれていた所です。

「進行管理は大人が行う」

多分、この結論に辿り着いた理由の一つとして、(違うかもしれませんが)子どもたちに成功体験(納得して応募まで辿り着いた)をさせたいという考えがあるのでは無いかと思っています。それは悪く無いのですが、個人的な意見ですが大人が率先して失敗体験もしくは中途半端になってしまった体験も導くべきだと思います。そして、一旦は区切りをつけさせるべきかなと。

子どもたちに広い範囲(できればすべて)を任せる

私は、子どもたちに出来るだけ広い範囲を任せて、あくまで大人は管理はしない方がいいと思う教育理念を持っています。(もちろん、危険管理は別です。)子どもに関わる大人はあくまで複数の方向性を提示するにとどめる役割であった方がいいと思っています。なぜそう考えるかというと、大人が先回りすると子どもたち本人が自分ごとと考える癖がつきにくいのではないかと思うからです。

なぜ、私がそう思うかというと、今まで私が関わった多くの大人は自己解決能力が低いと思ってしまているからです。世界的に日本は特に低いと思っています。主観ですが。

もちろん、一定数の大人は、自分で考えて行動し、自分で取れる範囲の責任を考えて実行する力を持っているのを垣間見ています。若林さんも含めて Coder Dojo に関わる人の多くはその一人だと思っています。

ただ、私の今までの経験上、自分に関わる事象や課題に対して私事として自己解決に動こうと思っている人が少ないと思います。特にPTAなどに関わっているので子育てや子どもの未来に関して活動をしていると多く思います。

今まで私が関わった、多くの大人が口を揃えて言っているように感じるのが
「なんで私がそれをやらないといけないの?誰かにやってもらいたい」
「そんな責任がかかることはしたくない」
「私はそれをやったことがないから出来ない」
というような事なんです。

論理的に上記の反論をすることもできるのですが、人間は感情がある生き物で、弱気になったりすることもありますし、分からなくはありません。ですが、自分がやるべきだと思っていることに関しても上記のように考える大人が多いと思います。そして、個人的な意見としてこういう考えをする大人が多いのは、今までの教育に大きな原因があると思うのです。

私たちが受けてきた教育(1972年生まれ)

私たちが受けてきた教育の根底にあるのが、「平均化して失敗しないようにして生きること」だと思っています。もう、50年前の社会状況で作られた仕組みなので、50年前の状態を批判する気は一切ないのですが、この状況を令和の今でも続けているように感じる教育はどうなんだろうかと思ってしまうのです。

どなたかの言葉で私が初めて認識したか忘れたのですが、「学校は子どもが安心して失敗できる場所であるべきだ」という言葉に私は共感し感銘を受けています。また、それが理想だと思っています。

なのに、私が受けてきた教育の根底には「成功を目指し、失敗は恥ずかしいものだ」と刷り込まれてきた感覚があります。

なので、私に関わる子どもたちに「失敗を沢山してほしい。そして、その失敗から多くを学んでほしい。成功しなくていい。失敗から多くを学べた時点で成功だと思う」と私はいつも伝えています。そして、私の失敗談を多数話します。会社を倒産させて自己破産したことを話すこともよくあります。大腸全摘出をして、大腸がないことも包み隠さず話します。それでもほらみんなの前で笑顔で生きているよねって。そして、今でも挑戦をしているから失敗もたくさんしているよと。

自ら考えて行動して失敗をしないと本当の学びは少ない

んで、結論なのですが、できる限りのすべてを子どもたちに任せるべきだと思います。

なので、進行管理も子どもたちに任せるべきだと思います。
ただ、マネージメントの意識を持たせることは必要だと思います。私が子どもたちに社会で成功している人がよくやっていることとして伝える言葉の一つである「準備8割、実行2割」です。これを実践できるように導けたらいいなと。

私が中学校の部活動の中でおこなっていること

多くの Coder Dojo では小学生が多いので、私が関わっている中学生の部活動のやり方がそのまま使えるとは思いませんが、参考までに紹介したいと思います。

ちなみに、MinecraftCupへの参加が2022年の今年で2回目です。なので、まだまだ改善点は多数あると思うのですが、基本的に子どもたちが考えて行動し、それを大人はサポートすることに徹しています。でも、やはり学校の先生が関わるので、先回りしてしまっている部分もありますが、出来る限り自分達で気がついて改善できるように進めています。これが100%できていないのは事実です。

2021年最初の年にやったこと

まず、MinecraftCupに参加することを前向きに検討したのは、子どもたちからの希望です。顧問の先生から「子どもたちがMinecraftCupに参加したいと言っているのでご協力をお願いします」と連絡がありまして、検討することにしました。MinecraftCupの存在に関しては、部活動の中で子どもたちに何回か「こういうのがあるよ」と伝えていましたが、私や先生が主導して「MinecraftCup」に参加しよう!とは意識的にしないようにしました。一度、先生からそういう打診がありましたが、子どもたちの自主性を尊重することと、学びのために子どもたちがやりたいと言ってきたら全力でサポートしましょうということで話していました。

そしてMinecraftCupに参加を検討してから、私以上に顧問の先生や校長先生が教育委員会と多くの折衝をしていただきました。基本的に、地方の教育委員会は「Minecraftってゲームでしょう?」という姿勢です。教育版があり、世界的には教育で活用されていると幾ら説明しても、「子どもは管理しないとゲームをやり続ける」という考えが染み付いていました。ただ、今回の件で運がいいことがありまして、教育委員会の中の方でMinecraftCup に関わっている方がいらっしゃったことです。その方のご協力を元に、1年をかけて教育委員会に説明をしてMinecraftCupに参加することができるようになりました。

ちなみに、今回の件で、「子どもは管理しないとゲームをやり続ける」という事実はありませんでした。その理由の一つになったのは、子どもたちにMinecraftに関連する部活動でのルールを作ってもらったことです。子どもたちがそのルールを部活動の顧問に出して、顧問と学校及び教育委員会で検討してもらって、活動できるようにしたのです。

ここまではちょっと話がずれましたが、MinecraftCup に参加できるようになるまでの経緯です。そして、参加できる準備が整ってから、保護者と子どもたちに説明を行いました。

最初の目標はどんな形でも応募すること

そして、部活動の希望者のみ MinecraftCup に参加するということです。希望者以外は scratch や他の活動をする形で行いました。活動は基本的に学校で行うのですが、様々な家庭環境があり、家庭での考え方が多様性を尊重した形です。なので、一定数は MinecraftCup に参加していません。

また、最初の目標は「応募すること」にしました。これも、子どもたちと一緒に決めた内容です。私も顧問の先生も含めてですが、初めての活動なのでどうなるか分からないのですし、今回の件に関しては多くの大人が尽力してくれたこともあるので、その方達に感謝を伝えるために「応募」を目標にしました。

また、もし応募ができなかったとしても良いと。でも、できる範囲で考えて行動しようと伝えました。初年度の活動だったので、いろいろ問題はありました。途中でチーム参加者が不参加になったりなど。ただ、そのすべてを認めました。色々とモヤモヤした子どもたちもいたと思います。ただ、基本として「強制をしない」ことと、様々な考えや状況を尊重することを大事にするようにしていたので、多分学校生活で大きな問題は起こらなかったと思います。私の知らない部分で起こってしまっていたかも知れませんが、その場合は申し訳ないなと思いますが。

正直に言って、最初の計画通りに行ったチームは確か無かったかと思います。初年度は本当に申し込み締め切りの前日にどうにか全てが揃った(正直子どもたちも納得はしていない部分はあったと思います)感じでした。そして、当初参加したチーム全てが応募することができました。

もちろん、技術というか学校のソフトの制限で1分の動画の編集は私が全ておこないました。動画の録画は子どもたちの操作を録画した形です。

今年はこんな感じで MinecraftCup は活動しました

そして、去年の体験をした子どもが中心に今年はスケジュールを作りました。今年は私が9月の頭に九州出張があったので、動画録画を9月1日までに終わらせるなどの制約もありましたが、そのためのスケジュールを作り、子どもたちがそのスケジュールに合わせて完了しました。実のところ、私の方が仕事が忙しくて、スケジュールを1日押してしまったということがありますが。。。子どもたちはドタバタしながらも大枠スケジュール通りにまとめてきました。

あと、去年と違って、今年やってよかったよねという内容は中間報告会を催したことです。応募までの中間ぐらいの時期に、どこまで出来て今後どうする予定ということをみんなの前で話す機会を作りました。そして、その時に他の子どもたちの意見も聞いたりできるようにしました。これによって、残りの時間を意識することと、新しい視点も少し手に入れられたのではないかと思っています。

んで、今年もやっていて思ったのが、どのチームもほとんど、当初の目標通りに行っていないことです。

実は去年の経験をもとに、私や顧問の先生と共有した認識があります。「まちづくりに完成形はない」という認識をもとに、最初の計画通りに作らなくて、作っている上でのピボットも大いに歓迎しようと。より良いものを作るためには、途中でこっちの方がいいんじゃない?という柔軟な考えがないとより良いものは作れない。計画や準備をすることは大事な要素だけど、計画通りにすることが最終目的ではなく、その時点でより良いものを作ることが最終目的であるはずと。

そんな感じで、今年も完成した5チームのまちはすべて素晴らしい出来だったなと個人的には思っています。今のベータ版として、あの子たちの一番の出来だと思っています。

私の考えとしての結論

そして、これは若林さんなどへの提案的な提言になると思うのですが、「応募すること」を目標にして次回は参加されたらいいのではないかなと。

私たち大人の仕事もそうですが、一般的に期限というものが定義されているはずです。その期限内にどこまでより良いものを作れたかによって仕事は評価されると思います。このMinecraftCupなどは、その子どもたちの練習として利用したらいいのではないかと。

期限があるからスケジュール管理も含めて、マネージメントが必要となってくるし。

そして、そのマネージメントを大人がやっちゃうと、せっかくの子どもの学びの機会を奪ってしまうことになるのではないかなと。子どもたちがやりたいという物事に関しては、自分ごととして考えているはずなので特に。

また、もし応募出来なくなってもいいよと。ただ、応募出来なかったときは、どうしてできなかったのかをしっかりと考えようと。犯人探しをするのではなくて、未来へ繋ぐ経験のために考える形で。

と、つらつらを書いてみましたが、我ながら文章力がないなと思いつつも、多分、大枠わかってもらえるように書けたのではないかということで、公開することにしました。

一意見として、皆さんの参考になればと。

追伸 – ちなみに私はマインクラフトをほぼやったことがありませんし、やっていません。出来る子どもたちに教えてもらったり、ググってその場で解決方法を一緒に見つけたりしています。あくまで、一緒に目標に向かってサポートする形に徹しているだけです。それでも、意外とうまく行っています。

人権活動に関して思うこと

人権活動に関して思うこと

先日、地域の教育委員会が主催して人権研究会というのがあったので、参加してきました。

正直に言って、時間の無駄になってしまったなと言う内容で、アンケートにも「まったく役に立たない」に丸を付けて帰ってきたのですが、否定するだけではまったく無価値なものになってしまうので、私なりに個人的な意見としてこういう風にすれば良いのではないかなと今考えていることを書いてみようかなと思いました。

なんで、時間の無駄に感じたのか。

この人権研究会(正式名称は異なります)に関しては、そもそも否定的な立場にいたということが大前提にありました。なので、なおのこと今回強く時間の無駄になったなと思ってしまったのだと思います。

今回「PTA・子ども会」が題材の分科会に参加したのですが、実はそもそもが私の所属してるPTAが当番校として指定されて、本来なら(?)私達が発表をしないといけなかったのですが、ボランティア制にPTAを移行したことコロナ禍で活動自体何も出来ていないことを理由にお断りをしたという経緯があります。ただ、個人的な過去の経験から人権問題はしっかりと取り組まないといけない問題という認識を持っていたので、時間の都合が付いたので参加させてもらいました。

司会進行は学校の先生がなさっていたのですが、これは司会進行のプロではないので、そこまでうまくするのは難しいだろうなと理解しています。なので、その部分は別にしたとしても、開催終了が4時30分の予定で告知されて、他の分科会が終わっていない状態で3時半には終了というのはどうなんだろうと。これも、司会進行がうまく回せず、質問や意見が自主的にはほぼ出なかったので、致し方がないというのも理解は出来るのですが、そもそも質問や意見が出ないという所に大きな問題があることを考えるべきだと思うのです。

あと、司会進行の方が「なかなかコロナ禍で活動もできなかったので、ご意見も無いとは思うのですが」という主旨のことを何度か話されていたのですが、それだったら参加された方だけでも議論できる内容を前もって考えておくべきだったのではないかなと。民間の研究会でこれをやったら苦情の嵐というかそういう状態だと思います。無料開催だったとしても、個人的には「二度と行かない」となるかと思います。(ちょっと厳し目ですいません)

まあ、この部分も司会進行の方がプロではないのが原因の一つですが、実行委員会も含めて事前に考えておくべき内容だったのではないかと思います。(実行委員には知り合いもいるので、この記事で嫌われちゃうかもしれませんが、意見として読んでいただければ嬉しいです。)

今回このようになったのは、やり方を前年踏襲でやってしまったからだと思います。そもそも、人権活動自体がこのコロナ禍でここまで大きく異なっているのですから、その活動を議論し合う研究会も異ならないと行けないはずです。前年踏襲でやってしまったから、個人的な意見なのかもしれませんが「ただの時間の無駄」になってしまうのだと思います。もちろん、教員の方が主体でされているようなので、開催までに内容を話し合う時間の確保が出来なかったりしたことが想像に難くないのですが、なんのためにやっているのかを考えると、そもそもそれならしない方が良いのではないかと思ってしまうので。このような研究会(勉強会)というものは意義が無いと、協力は得られにくいのではないかと思います。

先に伝えておきますが、私が今回参加した分科会の内容だけでの判断となります。この分科会以外にもいじめや学習差を無くす、地域問題など、多種多様に渡る分科会がありましたので、そちらに参加したら私個人としては非常に有意義な分科会になった可能性はあります。ただ、他の分科会にも共通する問題点があるのではないかと思いますので、その点も踏まえて書いていきたいと思います。

人権活動研究会に参加した人にしか知識や思考が反映されない

例えば、今回私の参加した分科会の内容が運が悪かった。内容さえ良ければ良かったのか?

というのが、実はわたしは過去に何回かこのような会に参加させて頂いて、非常にためになる会もありました。ですが、参加した後にふと思ったのが、参加した人(例えば私の学校からの参加者が私だけだったりする)しか知識や思考に反映されないなと。もちろん、私が他の人に話聞かせたら良いという話もあるのでしょうが、そんなに人脈も無いですし、広げることは少なくとも私は出来ませんでした。

また、こういう研究会は「リーダー研修」だからという意味合いで話をされる方もいらっしゃいますが、そもそも参加者が「リーダーになろうと思って参加している」のでしょうか?特に地域の自治会やPTAなどの人権部の役員になった人が輪番や充て職で参加している場合、どうなんでしょうか?人権部に立候補して参加している方もいらっしゃると思いますが、その方がどのくらいなのか、冷静に考えるべきだと思います。

その上で想像してみてください。自分に興味のない事柄の事項の研究会に参加して意義を感じなかった場合、どのような感情を持つでしょうか?少なくとも私は「時間の無駄だから二度と参加しない」になってしまいます。他の方で話し好きの方だったら悪評を広めることでしょう。(この投稿もそうなってしまうかもですが。。。)

また、今の時代に地域のリーダーとして活動すると言っても、人権啓蒙まで出来るのか?と。もちろん、地域活動をする方が人権をしっかりと守ることに貢献できれば良いのですが、地域活動に強制参加を義務付けたりしている地域に関しては、その意義はやはりないのではないかと思ってしまいます。

そもそも人権活動ってなんのためにするのか

個人的な意見でもしかしたら私が大きく間違っているのでかもしれませんが、今のやり方は人権活動を啓蒙する以上に衰退させてしまう活動になっているのではないかと思ってしまうので。

特に先述したような「活動への強制参加」などがまかり通っている時点で、人権が侵害されている事を認識すべきかと思います。人権とは、「すべての人間が人間として尊重され、自由であり、平等であり、差別されてはならないこと」だと私は認識しております。その中で、大事にされることは「自由・平等・差別されない」の3つが柱だと思います。もし、この私の考え方があっているとしたら、何かしらの活動に対して強制が発生するのは人権を守られていないことだと思うのです。本末転倒ではないかと。

とある学校の教頭先生に血相を変えて「人権活動を促進するのは国民の義務であり、PTAが必ず行わなければいけない活動だ」と言われた時に「人権とは何か?」をしっかりと考えるきっかけになりました。このような強制の考えが人権の大切さの啓蒙の逆効果になっているのではないかと私は思ってしまうのです。

PTA や地域活動の中で面倒と思われる活動

PTA 活動をしている、もしくは今までの活動の中でやりたくない活動のリストの中で上位に位置するのが「人権活動」ではないでしょうか?これは、統計を取ったわけではないので、根拠は薄いですが、概ね2021年の現状にあっているのではないでしょうか?

こうなってしまった理由の一つには、共働き家庭が増えてきた関係で可処分時間が少なくなってきて、多くの人が時間に対して余裕のある生活が出来なくなってきたことが大きな原因だと思っています。多くの人が「人権の大切さ」は理解しているのですが、自分たちの自由や時間を犠牲にまでして行う活動なのだろうかと考えるようになったのだと思います。また、意識するしないに関わらず、大多数が差別をされる側ではなく差別をする側であるということもあり、当事者意識が少ないのだと思います。冷静に分析すると、私はこれが合っているのではないかと思います。

だから「人権活動をしっかりすべき」という考えに関しては、私は一切否定しません。どちらかというとほぼ同意です。ただ、正しい活動だからという理由で強制させることは人権侵害である上に、人権活動を悪者化してしまっているのではないかと思うのです。

少し残念かもしれませんが、人は当事者にならないと問題や課題を認識しません。ちなみに私もそうです。子どもがいない時には子どものことをしっかりと考えていませんでした。多分、一般の方よりも子ども好きだったので子どもの問題などを考えていた意識はあるのですが、実際に娘たちの親になった瞬間にその重要性は一気に上がり、多くの問題や課題を考えるようになりました。

また人種差別問題に関しても、アメリカで起業して展示会などに行った時に明らかにアジア系への差別にあったことから人種差別には根深いものがあるのだなと思いました。もちろん、大多数が西海岸では人種差別をしません。西海岸は多くの人種の方が住んでいるのでそうだと思うのですが、白人がほとんどを占める地区ではやはりアジア系は特に元々が住んでいなかった種族として差別とは言わないまでも「普通の人」としては見られにくい地域になってしまうことは理解できます。駄目だと分かっていても「差別とは違いあるものを排除する文化」だからです。

まずは当事者意識を持つようにする活動が大事なのではないか

このような私の体験からすると人権活動は人権問題の当事者だったりする人権に対して問題や課題を感じている人が主体になってすべきなのではないかと思います。そして、当事者意識がない人に少なくなった可処分時間を使ってでも参加したほうが良いのではないかと思ってもらえるような活動をし参加してもらうことだと思うのです。

なので、クジで決まった人や輪番で回ってきた人がやれる活動ではないのではないかと思うのです。もちろん、講演などに参加するぐらいだったら良いのですが、活動主体になれというのは、何か本質とはずれているように感じるのです。人権とは幸せになるための「自由・平等・差別されない」が基本の三柱だとしたら、これからずれているのではないかと。

人権活動には今こそマーケティングの感覚が必要ではないか

では、人権活動するにはどうすべきかという事を個人的な意見として言わせて(書かせて?)もらうと、今からの地域活動などのものも含めて少なくなりつつある可処分時間を使ってもらえるかどうかという事を意識しないと行けないと思います。

エンターテインメント業界でよく言われる「可処分時間の奪い合い」の中で戦わ(?)ないといけないということです。それには、やはりマーケティングの知識や経験が必要になってくるのです。この現状を見ずに楽しようと考えると強制参加させるという方向に動くのだと思います。そして、今の状況になったのだろうなということが想像に難くありません。

となると本気で人権活動を啓蒙したいと思うのなら、真面目というか今までの踏襲的な活動では広げることは出来ないと思います。だからと言って、エンターテインメント的なふざけたりして注目を集めるわけではいけないので、非常に難しいマーケティングの能力が必要です。多分、これを実現できた人がビジネスをしたら最強のマーケッターになっていると思います。

ということで、これは予言的なものになりますが、若い人で人権活動をする人がいたら、この(マーケティングや可処分時間の)意識を持たせて実行して多くの人が集めることが出来れば最高(最強?)のマーケティング経験が出来ると思います。私達おじちゃんや年配者は、今までの固定概念を捨てて、本質を押さえつつ一緒に考えるべきなのだと思います。

やることを中心に置くのではなく、本質を考えるべき

また、昨今の役所系の人権活動に関して思うところは、人権活動の本質を考えて、今までの活動を数年おきに見直す仕組みを入れるべきだと思います。多分ですが、今回参加した活動も根本的なやり方は10年以上変わっていないのではないかと思うのです。内容は変わりますが、やり方やアプローチを下手すると30年近く変えていないのではないかと。それで今も成立するのはやはり無理があるのではないかと思うのです。

過去に活動をしていた人たちは新しいことをする人たちのバックアップに徹すること。先回りして問題が発生しそうなら、発生した時にリカバリーが出来るように動くことが大事なのだと思います。やってみないと問題になるかどうかも分かりません。

新しいことをする場合は、必然的に失敗も必要なのです。それを許容していかないと、地域活動や人権活動は広がっていかないと思います。

本当に人権活動が大事だと思うのなら、本質だけをしっかりと押さえて新しい活動に変革しないといけない時期に来ているのだと思います。

Minecraft を使える環境一覧

中学校の部活動をリモートですることを提案したので、リモートでする場合に必要な環境を調べてみました。

環境条件

今回は、チームを組んで、Minecraft のマルチプレイをするため、パソコンと Nintendo Switch の利用者が多いと思うので、Realms を利用出来ることを前提で調べてみました。

以下のソフトウェア費用など以外に Wifi などのインターネット通信費用が別途必要です。Switch などを利用する場合はスマートフォンのディザリングを使うと通信量をとても消費しますので、Wifi や家庭 LAN を利用するようにしてください。

Nintendo Switch の場合

必要な費用

  1. Minecraft 3,960円 購入リンク先
  2. Nintendo Switch Online 1か月(30日間)306円(税込)購入関連リンク

スマホもしくはタブレットの場合

必要な費用

パソコンの場合

必要な費用

※注意事項: 2020 年 12 月 1 日以降、Minecraft Java Edition を購入してプレイするために、Microsoft アカウントの取得が必須になりました。まだお持ちでない場合は、無料で作成できます。

PlayStation4 の場合

必要な費用

PS4 Minecraft 2,640円

Xbox One の場合

必要な費用

Xbox 版 Minecraft 2,640円

コロナ対策について思うこと

コロナ対策について思うこと

新年早々ですが、ちょっと炎上しそうな内容を書いてみようと思います。故意的に炎上しようとは思っていないのですが、これに関して個人的な意見を書くと反論したがる人も多いよなと思うだけです。

個人的に私のことを知っている人は分かると思いますが、色んな意見があるのが個人的に楽しいと言うか面白いなと思っているので、私の意見に反対される方も好きです。どちらかというと意見を言わない人のほうが好きじゃないかな。でも、それぞれに事情もあるでしょうから意見を言わないという選択肢を選んだ方も尊重すべきだと思います。

新年早々の緊急事態宣言が検討

これに関しては、正直に言って、人それぞれでポジショントークがあるという認識を持つべきです。

例えば、飲食店のオーナーで経済が大事だとか、観光業界の人にとっては確実に経済的影響が出るのは見えているので、ちょっと両手で賛成とは言えない事があると思います。

ただ、医療機関の現状を見てみて、影響が2週間後に出るということを考えると以下のようなニュースなどを見ると、そりゃやばいんじゃないのか?2週間後!と思う人が居ても、不思議ではないと思います。

なぜ年末年始の移動に変化なし? コロナ禍で自粛しない人々 1月には緊急事態宣言も?
https://news.yahoo.co.jp/articles/658071a1b0fdb40cfb05d96f5867875c4a8a56b2

東京都と近郊の都道府県の知事が緊急事態宣言の要望を出したことによって、2回目の緊急事態宣言が発令されそうですが、安倍前首相と違って、今回菅首相は言葉を悪く言うと歯切れが悪い「検討」ということで、首相会見を終わらせました。個人的には「スパッとしないな」と思ったのですが、今の時期は中学校、高校、大学の受験前で非常に難しい(ナーバスな)時期で、もしかしたら文科省との調整があるのかもと思った矢先に、夕方に「小学校、中学校、高校には休校要請はしない」と発表がありました。

学校を休校要請しないことについての議論

これに関しては、様々な意見が正直あると思います。各国で休校対応も違いが見られます。

山中伸弥教授の以下のページが論理的にエビデンス(証拠)を元にした現状(ちょっと古いかも?)が掲載されていますので、それを参考に現状を冷静に見る必要があると思います。

証拠(エビデンス)の強さによる情報分類
https://www.covid19-yamanaka.com/cont7/main.html

各国の対応は異なりますが、それはそれぞれの国の方々が考えた上で決断しているということも把握しておくべきです。漫画の読みすぎで、悪代官的な人が居て私利私欲のために選択していると思っている人もいるようですが、世の中そこまで単純ではないと思います。(少しはあるかもですが)

「あの国の対応は良かった!」というのは結果論です。それこそ、5年後にしか結果は出ません。今は政府としては国全体を見て最適解を選ぶように動くべきだと思いますし、現状個人的に日本ではそれが出来ていると思います。ちなみに意思統一してからの判断は今の状況では現実的ではありません。トップダウンも仕方ない状況だと思います。

そんな中で休校要請をしないことに対して、「人の命を何だと思っているんだ!」とか「私の子どもの命を守ってくれ」とか言っている人がいますが、まずは100%の感染を断絶するなら家から一歩も出さないことです。そして、両親もですね。今、子どもの感染の主たる要因は保護者からの感染です。さて、それを棚に上げて、休校要請をすることにどれくらいの意義があるのでしょうか?

また、変異体は子どもへの感染力が高いというのも報道されていますが、エビデンスがまだ乏しいことと、合わせて報道されているように重症化リスクは低い可能性が高いです。

そして、大抵、休校要請を提言する人は「国民はもっと怒るべきだ!」とか書いていますが、感情的になって何の意味があるのでしょうか?もちろん、自分の子どもが感染してしまったら感情的になるのも分かりますが、感染すらしていないのに感情的になって冷静な分析は出来ていませんと、自分で言っているようなものです。
人間、感情的になっているときが一番失敗しやすいんです。大人なら体験している人が多いと思います。もちろん、人間は感情の生き物なので一時的にそうなっても良いと思いますが、人間は反省することも出来る生き物です。感情的になったら、少し置いて「ステイクール」になって、考え直すべきです。

感染症の責任は誰か個人や一つの組織に押し付けるものではない

そもそも、感情的に批判する人の傾向としては、自分以外の誰かのせいにしておきたいという傾向があります。自分が悪くないと思いたいのです。

個人的に何も悪くない人は誰もいません。万事、自分に関わる良いこと悪いことに限らず何かしら原因を作っているはずです。

感染症は例えが悪いかもしれませんが、突然落ちてきた隕石みたいなものです。あとは、どう対処するかを考えるだけで、その中で失敗する生き物は滅んでしまうし、運良く成功した生き物は生き残る形です。今、恐竜のように進化せず他人のせいにすることで安心する選択肢を選ぶのではなく、哺乳類のように寒い環境でも生きていけるように進化するのか考えて行動すべきなのだと思います。

未知のものと戦うということがどれだけ難しいかは、想像力を持っていれば分かるはずです。正直、試行錯誤の連続ですし、臨機応変の対応も必要で、朝令暮改も必要になってきます。そういう状況に慣れていないということで、攻撃するのは、果たして正しい選択及び進化なのでしょうか?

まずは一人ひとりができることをする

大事なことは、見知らぬ他人のことは置いておいて、一人ひとりが出来ることをコツコツとすることだと思います。

手洗いうがい、マスク着用
家族以外との外食を避ける
密となる外出を避けること

とりあえずは、これくらいじゃないかなと思います。あとは、国や政府の指示に従い、もちろん意見を言うことは良いと思いますが、感情的に批判(皆そう思っている!などの根拠のないものも含めて)をするのではなく、論理的に意見を書くようにしたほうが良いと思います。文字には言霊というのがあって、拡散されて悪意に満ちることは過去に何度も証明されているのですから。

個人的なコロナ対策で国にしてほしいこと

個人的な意見として書くのですが、やはり外出禁止令などを制定して規制を守らない人を犯罪者として扱えるようにして法制化すべきだと思います。

もちろん、大戦前に日本が軍事国家になったのは、そういう法律が多数あったから、もう二度同じ法案を作らないほうが良いということは分かります。ただ、他国を見ても刑罰をもって対策をしないと、この多様性の社会の中で感染症対策をすることは至難の業ではないかと思います。

また、外出自粛要請に対応している日本国民が不満を持っているのは、その要請に対応しない国民がまあまあな数いることじゃないかなと。それを抑制するためにも、緊急時(戦時対応は除き、感染症対策の場合に限り)に外出禁止令を発令できるぐらいまでに法整備をしておいたほうが良いのだと思っています。

実は感染したら死ぬ可能性が高い私

ちなみに、私は病気の関係で大腸を全摘出しています。そのため、消化器官が普通の人より弱い状態で、コロナに感染すると重症化リスクの高い部類となります。コロナでは死なないかもしれませんが、それが併発して重症化する可能性が高いです。そして、死ぬもしくは重度障害者になる可能性が他の方より数段高いです。そんな私だから思うのかもしれませんが、家族から感染したとしても家族やそれに関わる人を批判するつもりはありません。だって、現時点では、社会という枠組みの中で生きている限り感染リスクは少なくとも持っているわけです。もちろん、私自身にも感染リスクは有るわけで。

そんな中では自分がまず出来ることをして、家族に情報を共有してそれを推奨(説明なしの強制は良くないし、実効性が低い)していくのが、自分自身や家族を守る手っ取り早い方法だと思います。

感情的にならずに、自分自身で出来ることをコツコツとやっていける人が、必然的に残っていくのかと。怒ると免疫力も下がると言いますし、日常生活の些細なことで笑いながら今を生活するのが一番ではなかろうかと。

追加参考資料

児童生徒の感染、半年で6千人超 年末1カ月で倍近くに
https://www.asahi.com/articles/ASP15645CP15UTIL03G.html

冷静に細かな以下の数値で判断すべき。全体数で判断は危険。感染源は家庭など大人から。
『文科省によると、6159人のうち、家庭内感染は3341人(約54%)▽学校内感染は964人(約16%)▽家庭・学校以外の活動・交流などでの感染は511人(約8%)▽経路不明は1303人(約21%)』

※ちなみに平成30年の人数ですが、小中高生の合計数は、15,094,430人で学校内・家庭学校以外・不明を足した数で確率を出すと0.02%。 こういう数字と冷静に見たほうが良いと思います。

日本におけるボランティアの意識調査結果(twitter メインで2020年9月末に実施)

日本におけるボランティアの意識調査結果(twitter メインで2020年9月末に実施)

ちょっと、先月まで忙しすぎて9月に行ったアンケートの考察が出来ていなかったので、今更ながら実施です。ちなみに今も多忙ではあります。www

アンケートを2段階でやってみた

実は、今回のアンケートは2段階でやってみました。というのが、まずは私のPTA用のtwitterアカウントでアンケートを取ってみたんです。まずは、自分のフォロワーをメインに聞いてみて、それが終わったら、お金の力を使って、普通の人に聞いてみるという形です。

まずは、フォロワーメインの結果

簡単に言うと自分のフォロワーにアンケートの回答をお願いした形だけでしてみました。最初の1日目です。その結果は、意外とボランティアに前向きな人が多いという結果になりました。

最初の1日目はフォロワーがメイン

画像での説明になっちゃいますが、56名の方が投票して頂いて、上記のような結果になった感じです。アナリティクスを見るとまあまあな投票率です。808名に表示されて、94回詳細を見られて56票投票してもらったということなので。

twitter のアナリティクスの途中経過

ボランティアに対価を求めないが69.6%

日本も捨てたもんじゃないのでは!と思ってしまいました。爆(次に続く)

次に広告を使って幅広く聞いてみた

次に幅広く広告(お金)を使って聞いてみました。これも、先と合わせるために1日間に絞って行いました。金額は具体的に書きますが、10,000円使いました。流石に、個人でこれ以上は出せないかなと。。。笑

年齢制限無し、日本国内を対象という、幅広く聞いてみました。

その結果がこれです。

「ボランティアをするなら、メリットが欲しい」が28.3%と主流派に。

主流派と言いつつも、意外と4つが平均的に別れたなと思います。

ちなみにアナリティクスは以下です。

約56,000回表示されて、7,221投票してもらえたことになります。単純計算すると、約13%の投票率です。ネットのアンケートとしては高い方ではないかなと。

ちなみに性別や地域とかも、ある程度分かったので、投票してもらった方の情報はこちらです。

性別

やはり、twitterでしたので、男性が多かったです。男女比率は3:2でした。でも、まあ、女性も多いほうかなと。

年齢と都道府県・地域

年齢や地域はかなりバラけたほうじゃないかなと思います。
生データを貼り付けていますので、細かく見たい方は画像をクリックして見てみてください。ただ、分け方が微妙なので、ちょっと分かりにくい感じです。ただ、ある程度はバラけている感じは受けます。まあ、ネットのアンケートなので、年配の方は少ないかなと。

年齢
都道府県・地域

客観的に全体の結果を見てみると

「ボランティアをするなら感謝されたい」= 25.8%
「ボランティアをするならメリットが欲しい」= 28.3%

となりまして、何かしらの見返りがほしいと思っている方は54.1%と過半数を超えているということです。

そして、「ボランティアをする気がない」 = 24.2% ということで4分の1の人はボランティアには参加する気がないという形でした。

そして、私のフォロワーメインの結果としては一番多かった「ボランティアをするからといって何も要らない」= 21.6%と全体の約2割となりました。

※注意事項:あくまでこのアンケートはTwitterで無作為にしたもので、

田中の主観を入れて考察

ここからは、田中の主観を入れての考察を書かせて頂きます。あくまで、考察なので正しいかどうかの判断は個人にお任せしますので、ご承知ください。

シンプルに私のフォロワーはPTA関連に興味がある人が多かったので、ボランティアに対しての意識が高いというか、無償の精神?的なものがあったのかなと。

それに対して、一般の方の半数は「ボランティア=仕事」に近い理解をされているのではないかなと。報酬がお金以外でもと考えると、こういう風に考察されました。

また、一般的な人としては、ボランティアに対して前向きな人は2割程度なのかなと。

色々なビジネスなどでよく言われるのですが、ニッパチの原理というのがあるのですが、それに当てはまるのかなと。

「8割のボランティア活動は2割のボランティアで形成されている」

こんな感じなのかなと。

そう考えると自治会やPTA等においては2割のボランティが参加すれば、8割のボランティア活動が成り立つのかなと。

極論ですが、自治会やPTA活動(ちょっと広義の方)をする人が2割いれば、PTA活動は成り立つのではないかと。

あと、逆の理論で以下もあるのかなと。

「8割のボランティアへの否定的なイメージは2割の否定派で作られている」

これはちょっと飛躍しているかもですが、多分近いのではないかなと。

あと、PTA活動としては、少なくとも2割が非会員になるのは普通なのかなと。そして、活動をする人も2割で良いのかなと。8割加入の2割の人が活動してくれるようなPTAにすれば、多くの人が幸せな感じで過ごせるのではないのかなと。
理想なのかもですが。

皆さんは、この結果をどう思われましたか?ボランティアに対して多様性を持って主体的に考えてもらえたらと。

挨拶について

挨拶について

今朝、ふと子どもたちの学校の行き帰りの挨拶について話題になったので、ちょっと個人的な意見を書いてみることにした。

挨拶はコミュニケーションの最初の一歩にはなる

学校の登下校時に子どもたちが挨拶をスクールガードさんにしない子がいるという話で、スクールガードさんから指摘が出ていたことを配布プリントに書くべきかどうかということで議論になったんです。

私の意見としては、「挨拶はすべきだけど、強要すべきものではない」というスタンス。というのも、子どもによっては思春期で挨拶が恥ずかしがる子もいるはず。そういう心を考えずに「挨拶はすべきだから強要すべき」となるのは、オカシイよなと。

子どもや大人が挨拶をしないのには、何かしらの理由があるはず。

私の知っている方(高齢の方)で、地域のいざこざがあって、ある人(こちらも高齢の方)に挨拶しても無視されるという事があるように、子どもなりに理由があるはず。まあ、個人的には照れなどが子どもの主な原因だろうと思うから、照れずにやれ!というのが同調圧力的でオカシイと思うんですよね。

年齢の高い人には無条件で挨拶をしないといけない?

スクールガードなどからこういう話が出る時は、大きく2つあって、「最近、思春期の子が挨拶が少なくなったね」というパターンと「スクールガードに立ってやっているの挨拶をしないとは何事だ!」というパターン。

ちょっと極端にしましたけど、大きく分けるとこの2つになるんだよね。で、結構多いのは先のパターンで、自分の感情として寂しいけど仕方ないよねという方が大半です。そのうえで、挨拶をして欲しいなという意見を聞くことがあります。その場合は、私も「そうですね」となるのですが、「挨拶すら出来んのか!」という方には、「それは、どうなんでしょうか?」となってしまう。だから、ある一定数の方を私は敵にしてしまうのでしょうけど。

私の考えとしては、年齢の高い低いに関わらず、挨拶をしたほうが良いなと判断した人に挨拶をしたらそれで良いのではないかと思っています。もし、挨拶をしても返してくれないのだったら、挨拶する対象として思われていないのだから仕方がない。自分に何かしらの原因があるのかもと思うようにしています。

そもそも、笑顔で挨拶をされていて、影では陰口をめっちゃ言われるぐらいなら挨拶されないほうがむしろスッキリするなと。www

実際、私も色々な人が知り合いが増えた関係で、覚えていない人がいたりして、先日挨拶したのに、気付いてもらえなかったと言われることが多々あります。これって、申し訳ないと思うんですが、なかなか数回しかあっていない人は覚えられないんです。もちろん、覚えられる人もいると思いますけど、私はゴメンナサイ、無理です。

もし、子どもが道端で挨拶をしてくれていて、その大人が気が付かなくて、傷つけていることもあると思うんですよ。なので、挨拶をして挨拶されなくても、「まあ、良いか」と私は思うようにしています。もしくは、「何か私の方でやっちゃったかな?機嫌が悪いのかな?照れているのかな?」ぐらいで。

挨拶を返してくれた事が嬉しくなる

挨拶をする立場としては挨拶を返してくれることを期待するのは仕方のない心理だと思うのですが、「挨拶をしてやっている」みたいな気持ちを持たなければ、挨拶を返してもらえなくても、返ってきたら単純に嬉しいなと思えると思うんですよね。

先に書きましたけど、「挨拶ってコミュニケーションの最初の一歩にはなる」という考えを持っていて、これはどの世代に対しても成り立つと思っているんです。年齢の高い人向けや年齢の低い人向けに関わらずですね。別に年齢が高ければ低い方からしなくちゃいけないとかいう考えは無くて、気がついた方からすればいいし、挨拶をされなかったら、相手に原因があるのではなくてこちら側に原因があると考えると、変に感情的になることもないんですよね。

実際、以前にあったのですが、地域の不登校の子に挨拶をしていて恥ずかしそうに首をちょこっと降るだけだった子が、比較的大きな声で「こんにちは」って言ってくれた時はマジで涙が出そうになりました。

挨拶って、「言葉のキャッチボール」っていうじゃないですか。キャッチボールってお互いにやる気がなければやり取りにならないんですよ。それは、投げる人は受け取る人が受け取ってくれる想定で投げますけど、キャッチボールする気のない人に投げても受け取りすらしてくれないはずなんです。それを理解していれば、たとえスクールガードだったとしても、挨拶の返事を返ってこなくても挨拶をし続ければ返してくれるようになるかもしれないし、返ってこないかもしれない。ただ、返してくれる子どもたちのために、みんなに挨拶をすればいいじゃないかなと思っています。

もちろん、これは私個人の考えであり、罰則をもってでも年配の人が挨拶をしてきたら必ず返さないといけないというルールを地域によっては作っても良いと思います。ただ、私はそういう地域では地域のために決して活動はしないなと。

PTAや自治会に加入するメリット

PTAや自治会に加入するメリット

昨日、PTA適正化オンラインディスカッションの中で自分が拾っておきながら、上手く答えられなかったような気がした質問があって、久しぶりになかなか寝付けなかった。

「加入メリットを是非!」

これは、PTAだけでなくて、自治会に関しても言えることだと思うんですよね。

古い言い方と言うか、一般的な言い方をすると、「子どものため」「地域のため」という説明をすることが多い気がするんですが、これってメリットではなくて、どちらかというと義務?的な感じがするので、違うなと。

「子どもの友達の保護者間で仲良くなれますよ」とか、「地域で災害にあった時に近所付き合いがあれお互い確認して安心ですよ」とかもあるんだけど、そもそも、知り合いがすでにある程度いたらメリットではない。それこそ、転勤族にはメリットになるかもだけど、絶対的メリットではない。

そもそも、PTAや自治会って「お金を払ってまで活動(仕事)をする」という、拝金主義者からするとドMな活動なんですよね。

んで、ふと思ったのが、最近の堀江貴文さんや西野さんのオンラインサロンってお金を払って皆で活動をしているなと思ったんですよ。これ、有名人とちょっとお知り合いになれるとか話ができると思って自己満足や自己優越で参加する人も少なくないので、若干ファンクラブ要素があると思うんですけど、これに近いのかなと思ったり思わなかったり。やはり、少し違うなと。ちょっと近いけど。

て、考えていたら岩竹 美加子さんが書かれているように「国家装置」としてPTAも自治会も組み込まれていたものなので、私の頭の中で一部思考停止してしまっている部分があるのではないかなと思ってきました。

100%まっさらに考えてみたら、オンラインパネルディスカッションでも話したとおりやっぱり「メリットは無い」が基本なんだろうなと。

多分、私も含めて多くの現存の大人がボランティアの本質が少しずれているところがあると、最近常々思っているんですよね。ボランティアって『人に言われてすることじゃなくて、自ら動くもの』だと以前、「神戸希望の明かり」などでご一緒した堀内正美さんに言われて、腹落ちしたことがあるんですけど、やっぱりその感覚なのかなと。

メリットと言えば、他者の評価とか損得が絡んでくるんだけど、自発的な活動にはその部分がなくても出来ることなんですよね。私が自分の娘達やその友達のために活動しようと思うところは、まさに他者の評価とか別に良いんですよね。自分の出来ることをやりたい。上から目線的な言葉になってしまうかもですが、やってあげたい。

また、自分が始めたことですけど、PTAオンラインパネルディスカッションもメリットって特に無いんですよね。ただ、育メン修行中さんと一緒で「適正化で苦しんでいる人の何かしらの助けや参考になれば」という気持ちだけなんですよね。

どちらかというと、多分影で「あいつ良いカッコしいだ!」とか「何正義感ぶって」とか、中学生あるあるな「真面目はカッコ悪い」的な批判の的になっているんだろうなと言うデメリットの方が大きいのだけど、自分の子どもたちとその友達のために出来ることの些細な一つだと思うので、やっているというのが自分的には現実なんですよね。

そういう点で、「メリットが無ければやりません」という方は非会員になられたほうが良いと思うんですよね。パネルディスカッションの打ち合わせの際に話していたんですけど、否定派がいると活動がしにくくなるので、どちらかと言うといないほうが良いと。いなくなって、楽しく活動できるようになったと。

あと、Twitterでよく見かける、「自分は直接校長や教育委員会に物申せるからPTAに加入する必要がない」と書かれている方は入らなくて良いと思うんですよね。実は私も校長や教育長に直接携帯で電話をかけることが出来る関係がありますので、その点で言うとそういう人にとって私こそPTAに加入する必要はないのかもしれませんが、私は参加して活動をした方が子どものためになるのではないかと思っているからやっているんです。

まあ、そもそもですが、このメリット論をする際には、適正化されてエントリー制になったPTAが前提という話です。強制入会で、意味のわからない活動を強いられるPTAは、やっぱりデメリットしか無いのかもと思います。

ちなみに、私は強制入会状態のまま、会長を辞したという自責の念と言うかそういうので、PTA適正化オンラインパネルディスカッションをしている一部はあります。

まだ、少しモヤモヤしていますが、そんな感じです。

あ!もしかして、損得なしに人を愛するのと似ているのかも?いや、やっぱり違うな。爆

PTAと自治会の本来の姿

色々なところで、いろいろな議論が出ている問題だと思うのですが、私の現時点での考え方を書いてみたいと思います。

ちなみに2019年12月のWordCampOsakaのセッションで WordPress と絡めて話をさせてもらっていて、これが基本的な私の根本的な考え方です。

45分もあるので、ご興味がある方は見ていただければと。1.5倍などでも最近は見れるので、良いですよね。

基本はボランティアだよね

私の考えは成り立ちとか、そういう事を言い出すと新しい人達が入りにくくなるというのが、こういう任意団体に関して思う意見です。

基本理念として、どうしてそういう団体を作っているかということです。私の知識では以下だと思います。

  • PTA => 学校に通う子どもたちのための先生と保護者の団体
  • 自治会 => 地域の活動を住む人達でより良くする団体

両方とも、場所(地域や学校)に関わる団体なので、ついついその場所に所属する人たちを強制的に入るようになる仕組みを作ってしまった過去があります。今までは、多くの人が中流階級で、ある意味平等で、地域の地主や金持ち以外はある程度の暇もあり、活動が出来たという実態があります。意外と20年ぐらい前までは違和感なく出来ていたんですよね。

あと、地主や金持ちが幅を利かせていて、その人達が主になって動くように行政が仕向けて、一般の地域の人に圧力をかけて、活動に参加させるようにしていった経緯があります。日本には村八分という言葉があるように、上の人間の言うことを聞かないと差別してその村では生きていけなくするようなことを平気で行ってきました。良い悪いは別として。その風土は残念ですが、現在の日本でも残っていると思います。もちろん、無い所も増えてはいますが。

なので、社会をアップデートできていない老人たちは、PTA会長がその小学校の決定権や発言権があり、その一言で色々と多くの人が付いてくると思っている傾向があります。

でも、今PTAに関わってPTA会長になった人なら分かると思いますが、影響力なんて殆どありません。多くの保護者がその地域に関わらず、他の地域に働きに行く人が多い地区は特にそうです。そうなると、会長という名前だけ偉そうな只の人です。しかも、責任だけ大きくなってしまう。なので、会長のなり手は少ないのも事実です。

少し話がずれましたが、まあ、ボランティアなんですよ。ボランティアに上下関係を作る時点で今の時代には合わないというかナンセンスなんですよね。

批判覚悟で言いますが、今までのPTAや自治会はボランティアの精神って基本的に無いんですよね。どちらかというと、「やってやっている」思想なんです。

本来の目的とボランティア精神でやるべき

なので、組織的に現在の多様性の社会や家族構成では、強制的に入るというような理解が出来るはずがないんです。それなのに、100%加入などを言い続ける人たちがいます。

これも、批判覚悟で言いますが、そういう人たちって、やっぱり「やってやっている」思想が強くて、上から目線なんですよね。本来の目標ではなくて、組織の存続やOB達を中心に考えてしまう。

いろんな活動をする時に思うのですが、本来の目的を忘れると大きく道を逸れてしまうんですよね。そして、不幸になっていくという。なんで、子どもたちのために行う活動であれば、それを主軸に考えるべきなんですよね。なので、それ以外の活動に関して、地域にお世話になっているから行うべき活動というのは何かずれている気がします。

そもそも、地域の活動もボランティアの精神で行っていれば、「お世話になっているからやるべき」などという、上から目線の考えは出てこないはずなんです。

だって、被災地支援に行くボランティアの人達が、復興したら支援された人たちがなにかするべきだという議論や考えは起こらないと思うんです。そんなボランティアはイヤラシイと思いませんか?

とある地域でPTA改革をしていたら、地域の人が学校に迫って「PTAが勝手にするなら地域は学校の協力をしない」と脅迫になりかねない脅しを平気でする自治会の方もいるという始末。学校の校長先生もそれは困りますよね。

もちろん、地域と学校が子どもを育てる面もありますが、まずは保護者と子どもたちが絆を作れる環境を地域は作るお手伝いをすべきなんだと思うんです。そうなると保護者の負担になる活動などは、負担のない参加方法を地域の方が模索すべきなのですが、前年踏襲の思考停止している方々では出来ないようなんです。もちろん、出来ている地域もあります。私もよく知っていますので。ただ、出来ていない地域が田舎では多めかなと。

PTAももちろんそうですが、新しい考え方も受け入れつつ、今できることをできる範囲でするべきなんですよね。

20年で以下のように家族の形が変わってきているのです。

資料出所
厚生労働省「厚生労働白書」、内閣府「男女共同参画白書」、総務省「労働力調査特別調査」、総務省「労働力調査(詳細集計)」

専業主婦世帯と共働き世帯 1980年~2018年

もう、変えないと行けない時期になっていることを上のグラフを見て実感してもらえないとね。しかも、学校の働き方改革を言われてるタイミングで、地域活動に学校の先生がもっと手伝うべきだというか言うのは時代遅れというか時代錯誤も甚だしいとしか言いようがないんですよね。

ただ、社会情報や社会情勢のアップデートが出来ていない大人が思ったよりも多くいますので、アップデートして欲しいなと。ハードウェアはアップデートが難しいですけど、誰でも情報はアップデートできるはずなんですよね。